ブツブツのビラ
2022年。あのまだまだ遠い先の事と思っていた東京オリンピックもとっくに終わり、今年も恐怖の健康診断で案の定レッドカードを頂き、毎月通院している近所のお医者さんからお薬を増やされてそれを憂鬱に思っていたら、ふと長期休会からの退会をしたエニタイム(24時間ジム)にまた嫌々行き始めようかなという考えに至り、また入会申請をしようか面倒だからやめようか、葛藤をしていたのだった。
そんな中、先日駅前を歩いていたら、信号待ちの向かいにあった潰れたコンビニ跡地前でイケメンお兄さんがビラ配りをしていた。
この日は雪が降るか降らないかという程の気温で冷たい雨が降っていたのに、お兄さんは薄手の蛍光色のジャージ姿で小麦色の肌。そして傘もささず、街の景色とミスマッチなのも相俟って通行人は皆そもそも目も合わさずビラを受け取る素振りもなくスルーしていた。
信号が青になり、いざ自分がそこの前を通り笑顔でビラを手渡してくれ、それを受け取ると「ありがとうございます!」と大きな声を自分の背中越しに言ってきてくれた。
歩きながら、たったこんな事で嬉しいなって感じてしまう自分を少しかわいそうに思いながら水滴の跡が多めに付いていたビラを読む。
どうやらそのコンビニ跡地に入るのが月額制の無人ジムだという事だった。
驚いたのは、その近くにある かつて利用していたエニタイムは月額8547円プラス1080円(ウォーターサーバー利用料)で10000円近かったのに対し、このジムは2980円(税込)という事だ。
なんとなく「ほらお前、安くしてやったんだから葛藤なんかせずちゃんと体動かせよ」っていう啓示かなと思ったので入会申請を決意したのだった。
しかしその帰り道にもそこを通った訳だが、ビラ配りはお兄さんからお姉さんに代わっていて、相変わらず通行人にスルーされていたのだが、自分が前を通った時はお姉さんったら手を引っ込めやがった。(これは数年前、エニタイムのビラ配りでも同じことをやられているので記憶が蘇ってきた)
入会前から試練を与えられて決意2割減。
やれるのか、、俺
(ジムのオープンはまだなのでそのうち続きを書こうかなって)
コロナつ
夏は本当に早かった。
例年海かプールに行って水面に浮かせた大きな浮き輪にケツを埋め、四半世紀以上にわたるマイ・夏を思い出しながら空を見上げて入道雲を見る。
それらの楽しい時間を四季を通して少しずつ過ごした代わりに1つ、代償として歳をカウントアップさせる感覚なのだ。
昭和のおっちゃんはまた一つ、うお〜俺、また歳取ったわ〜!!ってなる訳だ。(なんだそれ)
ってなるのが、今年は歳取り損みたいに思っている。だって本当に何もしてない。
せっかく予約した沖縄は、今ではスマホ画面越しにしか見ることが出来ないし、人とも全然遊んだりしていない。
何がウイルスだ。アホか!俺の半年を返せ!
クレームだ。返金案件だ。リプレイ希望だ。
ついつい言ってはいけない言葉なんかも頭を過り、口には出さない。(本当は出してる)
元々連休の少ない仕事をしているので、連休はどこかに旅行する事を日々、仕事のモチベーションにしている。
で、連休は普通に取れた。でも旅行には行けない。
部屋で大人しくする連休は、普段から仕事で体力、精神共に疲弊など全くしていない俺にとっては休息でもなんでもなくただの食っちゃ寝するだけの普段からありふれた時間の延長だった。
やる事がないってすごい。昭和の時代は陰キャな大人はどう家での時間を過ごしていたのだろう。
YouTubeで青々とした離島の風景を楽しもうにも、雑念が邪魔して穏やかに見れない。
飯テロ動画もさんざっぱら食べているからつまらなく感じる。
無意識に天井をぼけっと眺めて、過去回想をして気付けば30分とか普通に経過してしまう末期っぷりだった。
せっかく去年始めたジムも休会してしまったし、こっそり気まぐれで去年始めた習い事も再開していない。
バイクで一人でふらっと東北にでも行ってしまおうか?
いや、現地の人にナンバーを見られて怒られたりしたらかなわんな、、
それなら千葉の下の方なら、、(ナンバーは習志野なので)
でもそれは学生の頃散々房総には行ってたので気持ちが動かず、、
で、やる事がなくてまた台所からスナックの袋を引っ張り出してくる。
ポテトチップスの袋を開けた時に、「あぁこれは北海道で作ってる訳だから、今のこの中の空気は北海道の空気なのかなぁクンクン」
ってヤバくない?
仕事でも出張などはほぼ無く、あっても関東から出る事はない。遠くに行きたい。南か北に行きたい。行き先ならどこでも良い。
そうだ!レッドブル何本も飲んで翼が生えたら空を飛んでどっか遠くに行こう(錯乱)!!
そして夏が終わっていき、40歳のおっちゃんはただ41歳になった。
友人の結婚式と『楢山節考』
どうも、スパムです。
前回のエントリで「往復書簡」と書いたのに、ブログ主であるえびすがなかなか新しい記事を公開しないものなので、スパムが連続しての投稿です。
元号も変わったりしつつ世間は近年稀にみる大型連休のまっただ中、先日、高校時代の友人の結婚式に参列してきました。私が30歳強の年ということもあってか、ありがたいことにめでたいことに、今年はすでに4件の結婚式への出席が決まっており、自分を含めた周りもすっかりいい年になったなぁなんて思ったりもします。
前回のエントリでも書いたように私もえびすと同じくゲイなので、とりあえず現行の日本の法や社会制度下において、自分自身の結婚というのはあまり想定していません。(そもそも結婚してくれる相手がいないという、最大かつ根本の問題についてはとりあえず脇においておきます)
それでも、かつては「同性愛者は(偽装や子供をもうけるため、あるいはレズビアン女性などとの利害の一致によるものを除いて)結婚しないし、できない」という認識が日本では一般的なものだったと思いますが、「現行の日本の法や社会制度下において」というエクスキューズを差し挟む必要があるほどには、いわゆるLGBTQを含めた“結婚制度”に対する議論が今は活発化していて、30歳を過ぎたゲイのオジサンとしてはなかなかに隔世の感があったりもします。
とまれ友人の結婚式に馳せ参じたわけですが、ホテルのチャペルで粛々と進められる結婚式を見ながら、私はふと「これは何なのだろうか?」と感じていました。
(もちろん、友人の結婚を祝福する気持ちは十二分にあったので、あしからず)
つまり、私の知る限りキリスト教徒ではない友人が外国人の教父に導かれながら、聖書の文言を聞き、“父”の前で誓約をし、祈祷し、署名をしていたりする光景に、ある種居心地の悪い、言ってしまえば違和感があったわけです。
その違和感に端を発して展開した思考を、以下にダラダラと記しておきます。
(一部、この文章を書いていく中で発展していった思考も含んでいます)
友人はキリスト教徒でないため、父なる神に対する信仰は有していないはずで、そのため、この“結婚式”という儀礼は形式だけが残された状態で進行されている。
それでも友人は伴侶を愛する気持ちを持っているのであろうから、この儀式が形式主義的に見えたからといって、その意義や価値(という表現が適切かは難しいが)を貶めるものではない。
一方で、それではなぜこの「結婚式」という形式は、当事者たちにとって重要なものとされるのだろうか?
下世話な話ではあるが、友人はこの儀式に相応の金銭を支払っているのであろうし、そこに価値が見出され、ブライダルは巨大な産業となっている。
(社会的、あるいは大勢によって、「結婚式」は価値のあるものとして認められている)
そもそも「結婚式」とはいつ始まったものなのだろうか? それは、今眼前で行われているものを見れば明々白々なように、少なくともかつては「宗教儀礼」に属するものだったのだろう。
結婚式というのは、個々人の「伴侶を、愛している」という証明というよりも、むしろ社会を構成する単位としての“家族”となることを認証する儀式のように思われる。
一方で、現代社会において、「“家族”という単位の認証」は行政が担うものとなっている。
現在、日本では(先に述べたように)同性婚などの議論はかしましいが、そういった「結婚制度」については行政的なイシューとして語られることが多い。
(同性婚をめぐっては行政的な側面が強調されており、宗教的な面に関する議論は、自分の観測範囲ではあまり見受けられない)
宗教における「同性愛禁止」という戒律は、自団体や共同体(それは、ある時には国家となる)における動員の必要性から生じているはずで、つまり、人間を再生産できる男女のつがいを最小単位とした“家族”を作り出すことは、宗教にとって欠かせないものであった。そのために、結婚式を宗教が執り行っていたのだろうか?
また、同性婚をめぐっては、この“家族”という概念が取り沙汰されることも多い。
それでは“家族”には「一緒に生活する共同体」という定義のほか、「人間を再生産することができる」という機能が必要不可欠なのか否か。
“家族”の範疇は難しい。遠く離れた親族は“家族”ではないのか。親族と家族を隔てるものがあるとするならば、それは何か。
同性婚議論については、いわゆる“伝統的家族観”もまた議論の俎上にのる。この“伝統的家族観”について考える時、私はいつも深沢七郎の小説を原作とした映画『楢山節考』を思い出す。
あの映画では、童貞である“くされやっこ”もひとつ屋根の下で生活をし、家族の構成員となっている。調べてみると、「奴(やっこ)」は一生独身として労働するのだという。
つまり、日本の某女性国会議員が言うところの“生産性”は有しないが、労働力としての生産性は有している存在である。それでは、“くされやっこ”である利助は“家族”の範疇に含まれるのだろうか?
そういえば、『楢山節考』は“生産性”のなくなった老婆を捨てる話であり、また、捨てられる老婆のキャラクターは宗教における重要人物をイメージの源泉としているのは非常に興味深い。
(また“伝統的家族観”については、かつての「大店」なんかについても思いを馳せたりする。詳しくないので確かなことは言えないが、奉公人もたくさん抱えた上でひとつの家に住んでいて、会社やビジネスといった面での再生産を担うシステムだったように思える)
とにもかくにも、“結婚式”というのは「家族となる」ことを超越的な第三者によって認証する儀式のようだ。
神道の結婚式については詳しく知らないが、(そもそもキリスト教の結婚式についても詳しくは知らないのだが)意味合いとしては同様のものなのではないだろうか。
また、人前式についても、超越的ではないにせよ、第三者によって「家族となる」ことを認証する儀式なのであろう。
結婚をする時に行政に結婚届を提出すると、第三者である行政がそれを受理(ときには不受理)をする。
つまり、やはり“結婚”とは「第三者(人間であるかは問わない)によって、“家族”として認証されること」なのだろう。
その認証手続きをよりわかりやすい形で提示するのが結婚式なのだ。
……とまぁ、こんな感じでダラダラと考えていて、ぶっちゃけて言えば、最後なんとなく落としたような文章を入れたが、同じようなことをわりと早めに書いていたりしていて、オチも何もあったものではない。
普段の何気ない思考を結論づけて落とす必要など皆無なので、「なんとなくこんなことを考えた」ということをメモ書きしておきたかっただけである。
それでも、
「現在の同性婚議論を“宗教”という観点から見てみたら、何か新たな発見があるだろうか?」とか、
「超越的な第三者によって“家族”という構成単位を認証させることが“結婚”であるならば、超越的な第三者に“資本主義”を代入できないか?」とか、
「いや、今の同性婚議論の中には遺産問題も含まれているので、すでに“結婚”は資本主義と結びついた問題として議論されている」とか、
「改めて、(再)生産性と“家族”の定義を突き詰めて考えてみないと、“結婚”というテーマは扱えないのでは」とか、
いろいろと考えてみたいポイントが出てきたのでよしとしようではないか。(自己満足)
とりあえず、映画『楢山節考』は機会を設けて、もう一度見直してみたいところですね。無理くり〆
まるまる太った言いそこない
どうも、はじめまして。いきなりですが、この文章を書いているのは、当ブログ主の「えびす」ではありません。
僕は「スパム」と申します。
といっても、缶詰めされた肉塊でもなければ、迷惑なメッセージ群でもありません。しかし、ブログ上に唐突に差し挟まれるエントリという意味では、少し迷惑メールっぽくてそこそこ気に入りました(このペンネームの由来も考えてありますが、それはまた別の機会にでも)。
さて、普通の日記として公開された当ブログ4つ目のエントリで、いきなりわけのわからない始まり方をしていますが、つまるところ、ブログ上で「往復書簡」を始めてみよう、と思い立ったのです。
大仰に言いましたが、簡単に言うと「交換日記」ですね。
つらつらと書き連ねていく前に、当ブログの成り立ちについて、少しだけお話ししましょう。
僕は普段ものを書いたり、他人様の文章にあーだこーだ注文をつけるようなことをして日銭を稼いでいるのですが、そんなこともあってか、ある時、当ブログ主のえびすから「ブログをやりたいけど、やり方がよくわからないから教えてくれ」と請われ、はてなアカウントを取得してこのブログを立ち上げました。
(なお、ブログ開設に難しい作業は何一つとして存在しない)
そんなふうに多少なりとも手伝ったこともあって、たまにこのブログを覗いてたのです。
それでえびすのエントリを読んでいるうち、ふと「ひとつのブログを2人で自由に使ってみても面白いかもしれない」と思い立ったのです。
まぁ往復書簡はもとより、近年ではTwitterなどで恋人同士が使う“カップル垢”なんてのもあるわけで、使い古された手法ではありますが。
と、ここで誤解なきように言っておくと、僕はえびすが以前のエントリで触れた彼の恋人でもなんでもありません。
端的に説明すると、出会い系アプリで知り合ったけどヤりもしなければ恋愛に発展することもなく、何故かダラダラとたまに連絡を取り合うようになった友人、ですかね。
必然的に、僕はデブ専細のゲイということになります。はい、どうも。改めまして、おはこんばんちは。
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てなわけで、えびすの日記を読んだ上で、こちらも好き勝手書いていこうと思います。
ご多分に漏れず、僕もゲイ向け出会いアプリはポチポチとやっていて、たまに人と会わないことがないわけではない(回りくどい言い方)。
しかし、前エントリでえびすも右往左往しているように、初対面の人の反応というのは、いざ直面して会話をしていても判断に困る部分が大きい。
沈黙が怖くて、立て板に水を流すようにペラペラと中身のないことを話していても、「こんなことを話してて、相手はつまらなくないかな?」「もう自分と会うのが嫌になってないかな?」なんて思うのはしょちゅうだ。
だから、話の合間に「つまらなくないですか?」とか「自分はこんな感じなんですよね、すいません」なんて、いらぬエクスキューズをついつい挟んでしまう。
相手から見たら相当卑屈に映ってるだろうな、なんて思いながら、どうにもこの癖は止められない。
まぁ、一事が万事こんな感じなので、いくらアプリを介した出会いがあったところで、それ以降やり取りが長続きする人というのはあまりいない。
多分、自分は相手が想像していた存在とは違う何かだったのだろう……かといって、初めて出会った相手に上手く合わせるというのも難しい。
だって、相手がどういう人間を求めているかなんて、初対面でちょっと話しただけではわかりっこないからだ。
時間と親密性というのは、基本的には比例関係にあると言っていいだろう。
そんなわけで、アプリを介した一期一会の出会いはこれまでにいくつもあった。
多分お互いがちょっと違うなと思ってその後音信不通になった人もいるし、中には一度会ってそのまま肌を重ねたきりの人もいる。
そんなさまざま一期一会の出会いに共通するのは、トートロジーではあるが、再びまみえることがない、ということである。
出会い系アプリを介した対面は往々にして、日常的に接点がない人との邂逅であり、それこそがマッチングアプリが果たすべき機能だ。
ただ僕が使っているアプリでは、一定期間やり取りが更新されないメッセージはサーバー上から消去されるので、時間がたつと僕たちが一瞬でも出会ったという痕跡はきれいさっぱりなくなってしまう。だから、彼らと再会することは難しい。
そして、日々の雑務に忙殺され新しい出会いに躍起になっている日常にあっては、一度会ったきりの彼らのことを思い出すことなんてほとんどない。
それでも、ふとたまにいつか出会った彼らのことが頭をよぎるときがある。
それはその時待ち合わせた駅の改札口であったり、一緒に入った居酒屋だったり、街行く人のよく似た後ろ姿だったり、あるいはなんの脈絡もなく。
そんなとき、僕は今、彼らがそれぞれの人生を歩んでいるであろうことを思い、なんだかちょっとセンチメンタルな気持ちになる。
僕にとって、彼らの存在が道端に落ちているキレイな、あるいはちょっと変わった形をした石であったように、彼らにとっても僕はその程度の存在でしかないはずだ。
少し気になって蹴ってみたら、路傍の石は排水溝かどこかへ消えてしまった。
それはある人にとっては、磨けばダイヤモンドになる石だったのかもしれない。
今頃、彼らは誰かにとってのダイヤモンドになれているのだろうか?
モテない男はそんなことを考えながら、今日もアプリを開いては右へ左へと親指を払っている。
■当エントリタイトルについて
「往復書簡」は英語で「round-trip letter」。roundとtripにはそれぞれ「まるまる太った」「言いそこない」といった日本語訳があるとのこと。
まるまる太ったえびすが、日頃言えなかったことを書き溜めるこのブログにピッタリの言葉だな、と思いました。