友人の結婚式と『楢山節考』

どうも、スパムです。

 

前回のエントリで「往復書簡」と書いたのに、ブログ主であるえびすがなかなか新しい記事を公開しないものなので、スパムが連続しての投稿です。

 

 

元号も変わったりしつつ世間は近年稀にみる大型連休のまっただ中、先日、高校時代の友人の結婚式に参列してきました。私が30歳強の年ということもあってか、ありがたいことにめでたいことに、今年はすでに4件の結婚式への出席が決まっており、自分を含めた周りもすっかりいい年になったなぁなんて思ったりもします。

 

前回のエントリでも書いたように私もえびすと同じくゲイなので、とりあえず現行の日本の法や社会制度下において、自分自身の結婚というのはあまり想定していません。(そもそも結婚してくれる相手がいないという、最大かつ根本の問題についてはとりあえず脇においておきます)

 

それでも、かつては「同性愛者は(偽装や子供をもうけるため、あるいはレズビアン女性などとの利害の一致によるものを除いて)結婚しないし、できない」という認識が日本では一般的なものだったと思いますが、「現行の日本の法や社会制度下において」というエクスキューズを差し挟む必要があるほどには、いわゆるLGBTQを含めた“結婚制度”に対する議論が今は活発化していて、30歳を過ぎたゲイのオジサンとしてはなかなかに隔世の感があったりもします。

 

とまれ友人の結婚式に馳せ参じたわけですが、ホテルのチャペルで粛々と進められる結婚式を見ながら、私はふと「これは何なのだろうか?」と感じていました。

(もちろん、友人の結婚を祝福する気持ちは十二分にあったので、あしからず)

つまり、私の知る限りキリスト教徒ではない友人が外国人の教父に導かれながら、聖書の文言を聞き、“父”の前で誓約をし、祈祷し、署名をしていたりする光景に、ある種居心地の悪い、言ってしまえば違和感があったわけです。

 

その違和感に端を発して展開した思考を、以下にダラダラと記しておきます。

(一部、この文章を書いていく中で発展していった思考も含んでいます)

 

友人はキリスト教徒でないため、父なる神に対する信仰は有していないはずで、そのため、この“結婚式”という儀礼は形式だけが残された状態で進行されている。

それでも友人は伴侶を愛する気持ちを持っているのであろうから、この儀式が形式主義的に見えたからといって、その意義や価値(という表現が適切かは難しいが)を貶めるものではない。

一方で、それではなぜこの「結婚式」という形式は、当事者たちにとって重要なものとされるのだろうか?

下世話な話ではあるが、友人はこの儀式に相応の金銭を支払っているのであろうし、そこに価値が見出され、ブライダルは巨大な産業となっている。

(社会的、あるいは大勢によって、「結婚式」は価値のあるものとして認められている)

そもそも「結婚式」とはいつ始まったものなのだろうか? それは、今眼前で行われているものを見れば明々白々なように、少なくともかつては「宗教儀礼」に属するものだったのだろう。

結婚式というのは、個々人の「伴侶を、愛している」という証明というよりも、むしろ社会を構成する単位としての“家族”となることを認証する儀式のように思われる。

一方で、現代社会において、「“家族”という単位の認証」は行政が担うものとなっている。

現在、日本では(先に述べたように)同性婚などの議論はかしましいが、そういった「結婚制度」については行政的なイシューとして語られることが多い。

同性婚をめぐっては行政的な側面が強調されており、宗教的な面に関する議論は、自分の観測範囲ではあまり見受けられない)

宗教における「同性愛禁止」という戒律は、自団体や共同体(それは、ある時には国家となる)における動員の必要性から生じているはずで、つまり、人間を再生産できる男女のつがいを最小単位とした“家族”を作り出すことは、宗教にとって欠かせないものであった。そのために、結婚式を宗教が執り行っていたのだろうか?

また、同性婚をめぐっては、この“家族”という概念が取り沙汰されることも多い。

それでは“家族”には「一緒に生活する共同体」という定義のほか、「人間を再生産することができる」という機能が必要不可欠なのか否か。

“家族”の範疇は難しい。遠く離れた親族は“家族”ではないのか。親族と家族を隔てるものがあるとするならば、それは何か。

同性婚議論については、いわゆる“伝統的家族観”もまた議論の俎上にのる。この“伝統的家族観”について考える時、私はいつも深沢七郎の小説を原作とした映画『楢山節考』を思い出す。

あの映画では、童貞である“くされやっこ”もひとつ屋根の下で生活をし、家族の構成員となっている。調べてみると、「奴(やっこ)」は一生独身として労働するのだという。

つまり、日本の某女性国会議員が言うところの“生産性”は有しないが、労働力としての生産性は有している存在である。それでは、“くされやっこ”である利助は“家族”の範疇に含まれるのだろうか?

そういえば、『楢山節考』は“生産性”のなくなった老婆を捨てる話であり、また、捨てられる老婆のキャラクターは宗教における重要人物をイメージの源泉としているのは非常に興味深い。

(また“伝統的家族観”については、かつての「大店」なんかについても思いを馳せたりする。詳しくないので確かなことは言えないが、奉公人もたくさん抱えた上でひとつの家に住んでいて、会社やビジネスといった面での再生産を担うシステムだったように思える)

 

とにもかくにも、“結婚式”というのは「家族となる」ことを超越的な第三者によって認証する儀式のようだ。

神道の結婚式については詳しく知らないが、(そもそもキリスト教の結婚式についても詳しくは知らないのだが)意味合いとしては同様のものなのではないだろうか。

また、人前式についても、超越的ではないにせよ、第三者によって「家族となる」ことを認証する儀式なのであろう。

結婚をする時に行政に結婚届を提出すると、第三者である行政がそれを受理(ときには不受理)をする。

 

つまり、やはり“結婚”とは「第三者(人間であるかは問わない)によって、“家族”として認証されること」なのだろう。

その認証手続きをよりわかりやすい形で提示するのが結婚式なのだ。

 

 

……とまぁ、こんな感じでダラダラと考えていて、ぶっちゃけて言えば、最後なんとなく落としたような文章を入れたが、同じようなことをわりと早めに書いていたりしていて、オチも何もあったものではない。

普段の何気ない思考を結論づけて落とす必要など皆無なので、「なんとなくこんなことを考えた」ということをメモ書きしておきたかっただけである。

 

それでも、

「現在の同性婚議論を“宗教”という観点から見てみたら、何か新たな発見があるだろうか?」とか、

「超越的な第三者によって“家族”という構成単位を認証させることが“結婚”であるならば、超越的な第三者に“資本主義”を代入できないか?」とか、

「いや、今の同性婚議論の中には遺産問題も含まれているので、すでに“結婚”は資本主義と結びついた問題として議論されている」とか、

「改めて、(再)生産性と“家族”の定義を突き詰めて考えてみないと、“結婚”というテーマは扱えないのでは」とか、

いろいろと考えてみたいポイントが出てきたのでよしとしようではないか。(自己満足)

 

とりあえず、映画『楢山節考』は機会を設けて、もう一度見直してみたいところですね。無理くり〆